入力者 大坪寿子
昭和45年4月26日特別奉修委員会
ご心眼 さたけいすけさんがスリッパに顔ありのご心眼を頂いてからのお話
久保山さんがグミを頂いたお知らせからのお話
今朝のご祈念の後に、久留米の佐田さんたちがここで、お届けをされます中に、けいすけくんが、今朝から、御心眼を頂いたというんです。ほんとにいつもの事ですけれども、まーだ、えー、かぞえ、まんのいくつでしょうか。やっつ、はっさいでしょうか。そしてやっぱり、もう一年の朝参りを、ああして続けて、一生懸命、その、ご承知の通りですよね、あの、ご祈念、あー、おー、あまつのりとも、覚えよう、大ばらいも覚えして、もう、あの人が、大ばらいをあげとらんと、なんかちょっとこう、しきさいをかぐような感じがする、さえぐらいにあるですね、このこごろの、朝のご祈念のときに、まーそういうような、まー子供ながらも、一つの一心をたてておるからこそ、まーああして、出てこれるわけでもございましょうがね、それにたいして神様が、いちいち答えておってくださるということですよね。とてもあなたもう、何十年、金光様の先生してから。まーだ御心眼てん、なんてん頂いた事もないという人がたっくさんありますとよ。あたしどんですら、御心眼とかなんとか教えいただくなんかって、もう、あー、特別な御徳を受けた人。なかできんと思うとったね。あたしどん、熱心な信心をたとえば、まー、しよるときでも、そげん思いよりましたぐらいでしたが、はーだその、8歳ぐらいの、だからもう神様は、その、年をとっととか、あー、なんかじゃないごたるですね。えー、神様が教えてくださるのですから。ねー。
けどもそのお知らせが、やっぱり子供には子供らしく、そのまるきり、いー、マンガの本でも読みよるようなかんじの、おー、御心眼ですよね。スリッパを、こう履こうと思うたと。そしたらそのスリッパにね、顔があるっち。ね、ね、そしてそのスリッパがね、だから黙ってこうやって履いたらね、そのいやーな顔をしたて。それからね、しまいにはそれがね、そのはらかいたようなふうな、顔になってから、その人ば、そのスリッパがね、飲み込んでしもうた。というようなその、まー、奇想天外なですかねー、それこそマンガに、みるような、ご心眼なんですよ。けれども、あたくしは、ほんっとに素晴らしいことだと、こう思うですね。お互いの信心が、まず、その自分の手元、足元からと言われるが、まず、その足元、に、つっかける、そのそれがです、なにげなしにつっかけておりますけれども、もし、あのスリッパに、顔があり、いわば、命があり、ものをもし言えたならですね、「ちょっとこらこら」っち。言うてくるげなことがあろうとおもうですね。そしてから、つーっと、(?ほーからけちから)、ほんとに、履かして貰いますとか、ありがたかったとかとか、なにかね、いわば、スリッパ一つにでも、感謝の心、を、込めて、いける、そういう心こそが、いわゆる、和賀心だということでしょう、わたし思いましたね。ね、もうほんとに、ありがとうございましたと、包丁一つ使わせていただいても、ありがとうございましたと、こう、包丁さんにお礼が言えれるような、あたしゃ、ね、もし包丁に、例えば、目があり、口があり、いわばものを言えることがあったらですね、あたしはほんとに、いー、その通りの事だろうと、わたしはこう思うんです。ね、でひとつ、けいすけ君に教えてくださったと言う事は、たしかに、そうだということなんです、ね、スリッパにも命があるんだと言う事です。ね。これは、あのー、また、霊的なむつかしい話ですけれども、これはね、あのー、(?ふくたい)ていうのが全てにあります。人間の姿にも、これにもね、これの霊的な姿って言うもの、これ、(?おへっかでてきますけども?)これにはもう一つの姿、
あたくしが、あの、20年前いろいろ、お知らせいただいておるときにはね、全てのふくたいと言うものを、頂よりました。ほんとの姿ですね。これと同じものが、もう一つの形で、あるわけなんですね。それをあたくしは、心と言うと、あたくしどもの心があるように、あるやらないやら分からんごとしとるけれども、これにはこれの心があるということ、それをふくたいと。申しております。ね、それが事実なのですからね、実際は。ですからそれに、もしお礼を言うて、やぶ神こ神の前を通っても一礼をするような心もちを忘れるなと、なるほど金光様の信心頂いて、てんが、大地のいうなら、ご信心を頂いておるのですから、ほかの、仏様やら何やら問題じゃないと、言うような考え方もあるけれどもね、たとえ、やぶ神こ神の前を通ってもと、こうおっしゃる。ね。ならお地蔵さんにも心があろうと。ね、ひとつの(?せっと)の前をとおったちゃ、やっぱりその、おー、いのちがおろうと、その前を、こう、頭を下げて通るような、その心もちなんです。ね。もしお地蔵さんにいのちがあるなら、ふとこうやって、はーほんとに、自分の前を、頭の下げるもんなこの頃全然おらんが、「今の人はどこのひとやろうか、と思いよったら、なるほど後ろに八つ波のご紋(?しょうの)紋がついとった」と。してごらんなさい。「はー、金光大神の氏子じゃなー」と。「金光大神はよい氏子を持ってしあわせじゃな」と、あたしは、お地蔵さんが思われるじゃろうと思うです。そっすと、わたくしじゃなくて、いわゆるわたくしの師匠なり、またはわたくしどもいただいた、金光大神の名前まででろうというもんですよね。あたくし、そういう、それが信心だと思うんですよ。ね、だから、そういう心の状態を育てていくことを、例えば、今朝あたりは、またむつかしゅー、またはわかりやすくね、ああして、あのように、いただいたわけですけれどもです、
きのうはあのー、久保山さんがお届けされますのに、今朝方か、昨日かしりませんけ、「今朝、おし、今朝方いただからたんですか。」ね、あの、ぐみっていうのがありますでしょう。あのー、ぐみ、もう今頃から赤くなっておる、あのぐみをこうやって頂かれたって、てんですね。グミのお知らせは、あの、くに、久しゅう美しゅうと、文字って、ご理解をいただたことがあります。ようにですに、その、ほんとに、限りなく美しゅうならせていただく。しかもそれが、いく久しゅう、いつまでもね、美しゅうしておれれる、おかげいただこうと言う、思いを一つにした人たちのね、グループを作れと言う事です。ね、今、もうそりゃー、あのー、いま合楽が言ってる信心は、実際、めざま、目覚しいです。久保山さんたち、の二人、ね、中村さんにしろ、田中さんにしろ、こりゃ、ほんとにあの、あの、目覚しいです。その、(?しんきょ)の進み方(?っていうのがね)そういうその、たとえばありがたいものを、もし(とな、?)隣の人にも教えられたどういうことになるだろうか。今度久保山さんなんか、今日は、婦人の総会があって、そのー、婦人会長を、こんど、(つつみさんがいっちょ?ならんば)なっとられるということなんですけれども、なら、婦人会長としてですたい、ほんとにその、あのー、素晴らしい組合の、組合長になられる事になってですねー、久保山さんの周囲に、「そういう有難いものなら、あたしにも教えてもらいたい。」といったような人たちが、できてくるようなね、おかげを頂かれる。例えば、合楽という部落に、そういう、その素晴らしい組合が出来るとするならね、もうそれこそ、地元の足元の、合楽教会の地元の、例えば、婦人会ということが、そういう、うー、有難いことになってきたら、どういう有難い事になる。全ての事に、えー、お礼が言えれる、感謝がしあえれる、わたしは、おかげをいただいたら、組合そのものにです、いわゆる、婦人会そのものにです、ね、問題もなくなってしまうほどしの、有難い事になり、それが、一家を挙げてだけではなく、村をあげてですね、そういう平和な円満な村、村づくりといった様な事に、精進される御用を、これから頂かれるわけですけれども、そういう自覚にたって、あたしは、婦人会長をほんと、お受けにならんといかんと思いますよね。けれども、どうでもおかげを頂いて、ほんとに、そこに命あるもののごとくというけれども、実際は、命があるのでございますから、あたくしはそれを、つかわせてもらう、うー、にあたってはですね、やはり和賀心もってすると、それが、「どうもありがとうございました」とお礼の言えれるようなものがね、日日その、おー、それをいわんならんというのじゃないです、そういう心の状態で、使わせてもらうと言う事なんですよね。どうぞ。